デジタルゲームとは何か?

「ゲームとは○○である」
「ゲームは○○でなければならない」
と定義付けるのは難しい。いや、ほぼ無理かも知れない。
なぜならゲームという表現方法を一言であらわすと“多様性”だからだ。

プログラムして何かを動作させる。それを人に売る。
それだけで「ゲーム」と呼んで売る事ができてしまう。
そのプログラムの中身はトランプかもしれない。
小説かも知れない。
アニメーションかも知れない。
パチンコかも、
ピタゴラスイッチかも、
人形劇かも、
計算機かも、
スケッチブックかも、
プラレールかも。

ゲームソフトという名のもとに
画面の向こうで起きる事なら何でも許容出来るのがゲームだ。

アナログの世界では小説とパチンコは全くの別のモノとして認識されている。
人間失格」と「CR海物語」はどちらが楽しいか?とか、
どちらが正しいか?
どちらが好きか?
など語られる事はほぼ無いだろう。
だが不思議な事にゲームソフトとして括られると横一線で語られ、
雑誌などでどちらが優れているか点数がつけられたりするのだ。

そうすると人々は自分好みのゲームを主軸として、
「ゲームとはこうあるべきである」とか
「こんなものはゲームとは言わない」などと言い出す。
それこそゲームの可能性を自ら放棄する行為だというのに。