実験小説第4回作品「白百合の香りし君へ」

『白百合の香りし君へ』

 

朝、目覚ましの音が鳴った。
6時30分。いつもと同じ時間。
彼女は目を開け、天井を見つめた。
「今日も始まったな」
そう呟いて、ベッドから起き上がる。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。
夫の分も用意して、食パンを焼く。
だが、夫はなかなか起きてこない。
寝室を覗くと、彼はすでにスーツ姿でスマホを見ていた。
「おはよう。朝ごはんできてるよ」
声をかけても、彼は反応しない。
彼女は少しムッとしながら、リビングに戻った。
食卓には、彼女が用意した朝食が並んでいる。
だが、夫はそれを無視して、冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、黙って食べ始めた。
「……無視? なんで?」
彼女は言葉を飲み込んだ。
最近、夫との会話が減っているのは感じていた。
でも、ここまで露骨に無視されるなんて。

通勤電車の中でも、違和感は続いた。
隣に立つ女性が、彼女の肩にバッグをぶつけても謝らない。
駅の改札を通るときも、ICカードをかざしても反応がない。
「え、壊れてる?」
駅員に声をかけようとしたが、彼は彼女を素通りした。
職場に着いても、同僚たちは彼女に目を向けない。
「おはようございます」
挨拶しても、誰も返事をしない。
会議室に入っても、彼女の席には別の社員が座っていた。
「……私、嫌われてるの?」
そう思いながらも、彼女は仕事をこなそうとした。
だが、パソコンはログインできず、メールも開けない。
上司に相談しようとしたが、彼は彼女の存在に気づかないまま、
別の社員と話し込んでいた。

夜、家に帰ると、夫がリビングで一人、仏壇の前に座っていた。
彼の手には、白い百合の花。
その前には、彼女の写真が飾られていた。
「……え?」
彼女は近づき、写真を見つめた。
そこには、笑顔の自分が写っていた。
数日前の日付が刻まれた死亡通知書が、仏壇の横に置かれている。
「私……死んでたの?」
記憶が、断片的に蘇る。
雨の夜、スマホを見ながら横断歩道を渡っていた。
クラクション。
光。
衝撃。
彼女は、呆然と立ち尽くした。
そのとき、夫がふと顔を上げ、彼女の方を見た。
目が合った--確かに、合った。
「……見えてたの?」
彼女がそう呟いた瞬間、夫の表情が崩れた。
それまで張り詰めていた沈黙が、音を立てて崩れ落ちる。
「……やっぱり、気づいてたんだね」
彼女の声は、かすかに震えていた。
そのとき、彼女の輪郭が、ふっと揺らいだ。
「……やめてくれ……!」
夫が立ち上がり、彼女に駆け寄る。
「消えないでくれ! お願いだから……!」
彼の声は、涙に濡れていた。
「ずっと見えてた……でも、言えなかった……
言ったら、君がいなくなるってわかってたから……!」
彼女は、微笑んだ。
こんなにも愛されていたのに、私は気づかずにいた。
忙しさにかまけて、すれ違いに慣れて、
「無視されてる」なんて、勝手に思い込んでいた。
--違ったんだ。
彼は、ずっと私を見ていた。
見えていたのに、見えないふりをしてくれていた。
私がこの世界に少しでも長くいられるように。
「ありがとう……あなた」
涙はもう出なかった。
でも、心は温かかった。
最後に、こんなにも深く愛されていたことを知ることができたから。
「もう、大丈夫。あなたは、あなたの時間を生きて」
そう願いながら、彼女は静かに、光の粒となって消えていった。

 

彼女が消えた夜から、季節がひとつ過ぎた。
仏壇の前には、今も白い百合を欠かさない。
彼女が好きだった香り。
彼女がいた証。
あの夜、彼女が消えた瞬間、世界が本当に静かになった。
それまで、どこかに「まだいるかもしれない」という希望があった。
でも、もういない。
彼女は、ちゃんと旅立った。
「……ごめん。最後、抑えきれなかった」
彼は仏壇に向かって呟く。
「でも、あれでよかったんだよな。君が、ちゃんと気づけて……笑ってくれて……」
彼は目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、最後に見た彼女の微笑み。
それは、どんな写真よりも鮮明で、あたたかかった。
「ありがとう。君がいてくれて、本当によかった」
静かな部屋に、百合の香りがふわりと広がった。

 

エピローグ:白百合の庭で
病室の窓から、柔らかな午後の光が差し込んでいた。
ベッドの周りには、子どもたち、孫たち、そしてひ孫までが集まっていた。
彼は、静かに目を閉じていた。
呼吸は浅く、細く、けれど穏やかだった。
「おじいちゃん……ありがとう」
「大好きだよ」
「またね」
一人ひとりが手を握り、別れの言葉を告げていく。
彼はもう、言葉を返すことはできなかったが、微かに口元が緩んでいた。
部屋の隅には、白い百合の花が一輪、花瓶に生けられていた。
それは、彼が毎年欠かさず飾っていた花。
誰も理由を知らなかったが、彼にとっては特別な意味を持っていた。
--そして、そのときだった。
誰にも気づかれず、静かに、彼女が現れた。
50年前と変わらぬ姿で、白いワンピースをまとい、微笑んでいた。
「……おかえり」
彼の心の中に、彼女の声が響いた。
目を開けると、そこには確かに彼女がいた。
あの日と同じ、優しい目で彼を見つめていた。
「ずっと、待ってたよ」
「……遅くなって、ごめん」
「ううん。あなたが幸せに生きてくれて、嬉しかった」
彼の目から、一筋の涙がこぼれた。
彼女はそっと手を差し伸べる。
彼はその手を取り、ゆっくりと起き上がるように立ち上がった。
病室の時間が止まったように静まり返る。
子どもたちの声も、機械の音も、すべてが遠ざかっていく。
彼女と彼は、手をつないで歩き出す。
窓の外には、白百合が咲き誇る庭が広がっていた。
風が吹き、花びらが舞う。
「行こうか」
「うん、一緒に」
二人の姿は、光の中へと溶けていった。
残された病室には、白百合の香りだけが、静かに漂っていた。