エヴァンゲリオン新劇場版4部作をイッキ見したメモ

今から26年前の1995年。
新感覚のアニメーションとして話題となった「新世紀エヴァンゲリオン」。
しかし、そのエンディングは唐突で
伏線回収も放棄した解釈に困るぶつ切りの結末だった。
それを補完すべく制作されたのが劇場版2作。
1997年の新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に
そしてその2作を修正してまとめたのが1998年の
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に
この3作は観ていない。
でも、一応の物語は完結しているはず・・。
だが、2007年から全4部作として再構築したエヴァンゲリオン
劇場で上映される事になる。
テレビ版しか観ていない自分にとって、
なぜ一度完結したものをこれほどまでに時間をかけて
再構築する必要があったのかが不思議だった。
今年、新劇場版の最終作(4作目)が公開された事を機に、
新劇場版を1作目からイッキに視聴する事にした。
14年かけて描きなおした庵野秀明総監督の真意を確認するために。

なお、こちらの記事はネタバレ気にせず書いたものなので、
まだ観ていない方にはおすすめしない。

 

 

1作目

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」
2007年9月1日公開

父親である碇ゲンドウに呼び出された14歳の少年・碇シンジ
ゲンドウは箱根の地下に作られたネルフと呼ばれる組織のリーダーであり、
ネルフは人類壊滅の危機となる「使徒」と呼ばれる生物に対抗できる唯一の兵器、
人造人間エヴァンゲリオンを有していた。
使徒に襲われる最中に到着したシンジは、
いきなり「エヴァンゲリオンに乗れ」と命じられる。
シンジは自身の意思と関係無く使徒との戦いに投じられていく。

テレビ版の前半であるヤシマ作戦までを丁寧にまとめているし、
エヴァンゲリオンとはこういう話」というのがわかる一本だと思う。
テレビ版でも印象的だったシーンやセリフもちゃんと挿入されているし。
ただ本作は4部作の導入部として必要だったテレビ版前半の振り返りであり、
本作だけを観る限りでは「なぜ再構築が必要だったのか?」はよくわからない。
最後に「つづく」と画面に出し、スタッフロール後に次回予告まで入れて
連続モノである事を印象付けている。
その次回作が見れるのは2年後だ。

 

 

2作目

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
2009年6月27日公開

謎の少女、真希波・マリ・イラストリアスエヴァンゲリオン5号機に搭乗し、
北極に現れた第3の使徒をたった一人で迎撃するシーンから始まる。
その頃、日本では第7の使徒が出現。そこへ飛来したエヴァンゲリオン2号機。
使徒を殲滅したエヴァ搭乗者は式波・アスカ・ラングレー
性格に難ありのアスカと同居する事になるシンジ。
第8使徒との戦いや学園生活を共にするうちに
シンジ、レイ、アスカは心境が変化し、
打ち解ける関係性になっていく。
米国で開発中だったエヴァ3号機にテストパイロットとして搭乗したアスカだったが、
3号機は暴走し、第9の使徒と認定されてしまう。
初号機に乗って出撃したシンジだったが、自ら乗った初号機で3号機を破壊。
ショックを受けたシンジは「もうエヴァには乗らない」と出ていく事を決める。
シンジが街を離れようとするそのとき、第10の使徒が現れる。
そこで出撃したのは2号機に乗ったマリだった。
零号機で出撃したレイも合流するが第10使徒には敵わない。
そして零号機は使徒に捕食され、レイを取り込んでしまう。
シンジは思い返してネルフへ戻り初号機に乗り込む。
使徒の中からレイを救い出そうとするシンジの初号機は、
翼の生えた神のような姿に変化。
そのとき天空から槍が初号機を貫き、
そしてヱヴァンゲリオンMark.06と渚カヲルが現れる・・。

冒頭でいきなり新キャラのマリが登場し、お馴染みのアスカやリョウジも合流。
前作がテレビ版の振り返りだったのに対して、
本作は事実上、“再構築”の始まりとなる作品となっている。
テレビ版の結末に納得がいかなかったファンにとっては、
いよいよ「庵野監督がどう考えて仕切り直そうとしているのか目撃できる」という
待望の時間が始まったのである。
物語はとてもスピーディで、
ファイナル決戦を思わせる第10使徒との壮絶なバトルは
映画を最高潮に盛り上げる。
意外なんだけど、シンジがエヴァに絶望し、そして踵を返して初号機に乗り込み、
最終決戦に赴く展開とか、結構王道なロボットモノの展開に思えるんだよね。
エヴァは王道ではないものを作ってヒットしたアニメだと思っていたから。
それはともかく1本の映画としてとてもよくまとまっていると感じた。
アスカに比べて綾波レイを掘り下げたシーンが少なく感じたりとか、
3号機の犠牲になるのがアスカならば、
鈴原トウジとの絡みはあそこまで必要無かったんじゃないか?とか、
細かいところでは思うところはあったけども。
そしてここまで盛り上がるラストを描いてしまって、
第3作目ってどうなんの?どうすんの?
と素直に期待と不安が入り交じる感情が芽生えた。

使徒とは何なのか?
ゼーレの計画とは?
マリって何者だったの?
カヲルってずっと誰?
など様々な謎も残されたまま3作目に続く。
3作目「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の公開は3年後となる。

 

 

3作目

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」
2012年11月17日公開

開始冒頭から宇宙戦争のような描写。
そして初号機の中に眠っていた碇シンジが目を覚ます。
前作から14年経過していたこと、
そしてそれぞれのキャラの立場や環境が変化していることがわかる。
だがそれ以外の事は謎のまま物語は進む。

ミサト、アスカ、アヤナミ、ゲンドウ、カヲル。
誰に聞いても確信的な事は何も説明してくれないまま
状況に放り込まれる碇シンジと視聴者。
物語の最後までそんな調子。
(唯一の説明的シーンは冬月コウゾウアヤナミとシンジの母親の事を話すときぐらい)
碇シンジの悪夢を延々と見させられているような不条理アニメ。または鬱アニメ。
エヴァと言えば「謎や伏線で様々な解釈をさせる」
という手法を行った事がウケた作品だが、
本作は原点回帰でそれを全面的に復活させたような作り。
だけど、この方法には欠点があって、主人公の行動や周囲の状況の何が正しくて
どこに向かっているのはまったくわからないから物語に感情移入できない事だ。
この作品で「解釈を議論する」にはヒントが少なすぎるし、
アニメとして面白味に欠けると思った。
まったく違うアニメにしないと2作目の続きとして成り立たなかったのはわかるけど、
エヴァンゲリオンのフォーマットすら違ったら、
それはエヴァンゲリオンではないのではないかとすら思える。
唯一の希望はこの3作目が4作目の壮大な前振りとなる事だが、
その結論が出るのに8年もかかってしまうわけである。

 

 

4作目

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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」
2021年3月8日

前作で合流したシンジ、アスカ、アヤナミレイ。
シンジは前作のショックで失語症に。
3人が到着したのはサードインパクトの生存者が暮らす村。
そこにはかつての同級生である相田ケンスケ鈴原トウジらの姿も。
(シンジやアスカは成長が止まっているが、彼らはちゃんと年齢を重ねている)
村での生活がしばらく描かれる。
前作は全編通してシンジの悪夢の中みたいな映画だったが、
ここに来てやっと生活感のあるリアルな描写に戻る。
ロボットのように感情を持たないアヤナミレイは村の生活で“心”が芽生え、
シンジは心の傷が次第に癒えていく。
だがクローンであったアヤナミレイは、
長くネルフから離れていたために液状化して消滅。
それを見たシンジは再び最前線へ戻る決意をする。

フォースインパクトを起こそうとしているゲンドウ。
それを阻止しようとするアスカとマリだが、
アスカはエヴァ13号機に取り込まれてしまう。
シンジはアスカを救出するためにエヴァに乗ってアスカとともにネルフ最深部へ。
ここでは精神世界のようなところでゲンドウとシンジが対話する。
シンジはゲンドウを理解し、ゲンドウは「大人になったなシンジ」と。

そしてミサトが命と引き換えに届けたヴィレの槍によって
全てのエヴァは貫かれて消滅。
シンジは新たに創造された新世界へ戻っていく。
シーンは駅のホーム。
そこには大人になったとシンジとマリが登場し、物語は終幕へ。


本作は「エヴァンゲリオン」という特殊ケースの結論を確認するための完結編である。
尻切れトンボで終わったテレビシリーズを補完するために作られた旧劇場版3部作。
それらで描いたものをリセットして作られた新劇場版4部作。
アニメの劇場版をリセットしてやり直すケースも珍しいし、
そんな新劇場版が1作目から14年もの時間をかけている事も異例中の異例だ。
そこまでして庵野秀明監督が描きたかった「エヴァンゲリオン」とは何だったのか?
それがやっと確認できるというわけである。

本作は細かいところで色々と解釈が生まれるように組まれているので、
細かい事を書いていくのはやめて、大きな解釈だけをまとめよう。
つまるところ、旧約聖書から引用した輪廻転生、終末戦争、天地創造・・
といったものをベースとした壮大な物語を建付けとして、
少年の成長を描きたかったのかなと思う。
本作に行き着くまでずっと14歳の子供のままだったシンジが、
エヴァからの解放でやっと“大人”となり、
輪廻のループからも抜け出し、
同じ運命を持つ少年少女達も導いた。
そして最後にはアニメは実写に変わり、
アニメの世界(エヴァンゲリオンの世界)から視聴者をも解放したのでは無いかと。
(直前のシーンが絵コンテのままだったのはアニメである事を印象付けるためだよね)
これって大バッシングを受けた「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」にも似ていて、
まるで「アニメから強引に卒業を迫られた」ような虚無感に襲われるのだが、
庵野監督自身がエヴァからの卒業を表現したかったのかなとも思える。
(ラストの実写で登場した駅のホームは庵野監督の出身地だ)
また、テレビ版から数えると完結までに26年経過しており、
あの頃のリアルタイム視聴者はみんな大人。
この結論はエヴァンゲリオンだからこそ説得力があるのだろう。

ただ、新劇場版4部作をアニメ作品としてどうだったかを考えると、
2作目でストーリーに決着をつけておいた方が、
スッキリと高評価できたんじゃないかと個人的には思う。
これは好みの問題かも知れないが。
(アニメである現実をアニメ中に見せるメタ的表現は好きじゃないかも)
自分の場合、4作目が公開された2021年に1作目からイッキ見したので、
14年かけて追っかけて来た人とは感じ方が違うかもなー。

エヴァンゲリオン全体を振り返ると、
このアニメが大成功した要因は、
終末戦争のような壮大で難しい神話を描きながら、
キャラアニメとしてのビジネス的な訴求にも応えている点では無いかと思う。
美少女キャラがパンツを履くシーンなどを意図的に挿入したりとか。
エヴァンゲリオン以降、こうした構成のアニメは増えたが、
この両輪がちゃんと成立したアニメはそれほど多くないように思う。

そして最後に。
エヴァンゲリオンのようにお金と時間を大量に使えるアニメ映画は、
次、どのような形で実現するのだろう?